大人からのバレエ推進委員会監修

高橋森彦のバレエ&ダンスの逍遥

DANCING CHAPLIN BALLET DE ROLAND PETIT

映画「ダンシングチャプリン」を観ました

一昨年のことだったが、周防正行監督がなにやら草刈民代とルイジ・ボニーノと組んでチャップリンの映画を撮ると聞いたとき、 やられたっ!と地団駄踏んだものでした。というのも実は僕もチャップリンの映画を作りたかったのです。 シナリオも未完でしたが、だいたいの構想はできていていました。もっとも映画と言っても所謂「ユル映画」で1千万予算の枠組みの企画ものでしたが、 どんな内容かというのはヒミツです。(まだ諦めているわけではないから) なんでチャップリンを題材にしようと思ったのかというと、チャップリンのドラマの哀愁は世界のどこでも理解できる言葉だという思いがあって、 その1000分の一でもいいから、表現したいと思ったのでした。

ベジャールにしてもチャップリンは簡単に料理できなかった

いろいろチャップリンを演じているマイムなども観ましたが、これはこれは難しいものだと痛感していたところでした。 もうチャップリンの真似になってしまうんですね。もうはじめから負けてしまうわけです。 さてそんな経緯があっての映画鑑賞でした。 映画の紹介はこのサイトの高橋森彦氏のコラムで丁寧に評論されているので、僕はストリーなどは省きますが、 映画の一部でチャップリンを演じるルイジ・ボニーノがローラン・プティの「ダンシングチャプリン」の舞台に立つ時の 困惑と苦悩を語っているシーンがありました。チャップリンのスタイルで踊ることの無謀さについて自覚があったわけです。 まともな神経と表現を考えている役者やダンサーなら当然なことだと思います。それがあるときヨシやろうと思った瞬間が訪れたのだと語っています。 そういう自覚があった彼であっても、僕は正直、成功したとは思えませんでした。こんな言い方をするのは僕だけかも知れませんが、酷だなあと思ったものです。 画面から伝わってくる彼の人柄、ダンスのうまさなどを感じれば感じるほどそう思わざるを得なかったのでした。 これは映画のパンフレットに大野裕之氏が書かれてましたが、ベジャールにも「Mr.C」というチャップリンへのオマージュ作品があり、 天才チャップリンを踊ろうと試みるが結局断念するという内容のものだったといいます。 つまり、ベジャールは賢明にも逃げをうったというわけです。   ベジャールにしてもチャップリンは簡単に料理できなかったのです。

なぜいまチャップリンなのか

僕は周防監督のこの映画を感心しながら観ていました。といっても全面的に賛同したといったわけではなく、無難にまとめあげたなといった感想でした。 というのもいつもの周防監督の企画力らしからぬ弱々しさを感じました。ちょっと酷な言い方をすると高度なテレビドキュメンタリーというような印象をうけたのでした。 まあ第二部のローラン・プティ振り付けの草刈とボニーノの舞台があることでテレビとは質を異ならしたといっていいのかも知れませんが。 つまり周防監督にとってチャップリンとはなんなのか。なぜいまチャップリンなのかといった問いが希薄だったのではないでしょうか。 チャップリンが世界の人々を笑わせたのは、笑える人々の世界があったからだという自明の成り立ちをともすれば忘れがちになるのではないでしょうか。 いやもっと簡単に言えば周防監督はチャップリンのダンスを追求したのか、ローラン・プティのチャップリンを再現したかったのか、 妻の草刈民代のダンスを記録したかったのか、その辺りがない交ぜになって、なんでチャップリンなの?という企画性が貧血気味だったような気がします。 とにかくチャップリンを相手にするのには工夫がなさ過ぎましたね。今回は優等生過ぎました。

ところで今回、めずらしく映画のパンフレットを購入しました。バレエのパンフレットもそうだけど、 いろいろいっぱいためになることが書いてあるんです。読んでしまうと、この映画を誉めないといけないような気がしてきたのですが、 まあ僕がなにをいったところでどう影響するはずもないのだから、まあ自由に書かせてもらうことにしました。