倉知可英 ロングインタビュー
~私は踊りたいし作品を創りたい

名古屋を拠点に活発な創作活動を繰り広げる倉知可英。彼女は名古屋の現代舞踊のパイオニアで日本洋舞史に名を遺す奥田敏子(1920~1979)を大叔母に持ち、奥田からダンスの手ほどきを受けた。のちに石井みどり、折田克子、倉知外子に師事する。1998年には「愛知県新進芸術家海外留学等補助事業」の助成を受け、フランスのグルノーブル国立振付センターで2年間研修。その後6年間ジャン=クロード・ガロッタのカンパニーと契約し世界20か国以上をツアーで回った。帰国後は自身の創作や異分野のアーティストとの協同作業に熱心だ。平成24年度名古屋市芸術奨励賞受賞記念公演「DANCE YARD4」を前に、生い立ちからフランス時代、現在の関心までを存分に語ってもらった。

――ダンスを始めたのはいつですか?

教室に入ったのは6歳です。ただ稽古場の上に住んでいたので3歳くらいの時からレッスンを観るのが好きでした。大叔母の奥田敏子には子供がいなかったので孫みたいに可愛がってくれました。アルビン・エイリーとか海外から来る舞台に連れて行ってくれたりもしました。母親は舞踊家に限らず芸術家には偏った性格の人が多いと思っていたようで、私にダンスを習わせるのを渋っていましたが、6歳になってようやく奥田敏子のレッスンを受けられるようになりました。

――奥田敏子先生はどのような方でしたか?

私を可愛いがってくれるのですが贔屓するのですね。入ったばかりなのに発表会で平気で真ん中に置く(笑)。5、6歳の子たちを前に「あなたたちはダンサーっていうのよ」と言ったのが耳に残っています。一人の子供としてではなく踊りをやっている人として見ていた。一人で住んでいたので「寂しくないの?」と聞くと「ダンスがあるから寂しくないのよ」と言っていました。私が独身ということもあり、今その気持ちは良く分かります。色々な舞台を見せてくれましたし、母にも私に音楽とか絵とかも習わせて身体に貯金をしろと言っていたみたいです。それが創造活動をする糧になっている。感謝しています。

奥田敏子と(1979年) この年9月に死去

――奥田先生のレッスンや振付を受けた思い出をお聞かせください。

江口(隆哉)系のレッスンでした。モダンとバレエと融合されていない時代なので独特なバーレッスンもありました。創作に関して今思うとシンプルだけど全体の構成が上手い。初舞台ではジャズ「テイク・ファイヴ」の曲で踊りました。オペコットの生地で光るタイツを着ると裸のように見えます。頭にはピンクとかオレンジのウィッグを付ける。題名は『太陽の子』でした。奥田敏子の子供の作品は「大人が見て楽しめる」と言われていました。喜多郎の音楽をいち早く使い、田中泯さんを最初に起用したりしていました。あの時代にすれば凄くさばけていて視野が広い。性格が男性的だったというか大胆でダイナミックだと今になって思います。

――9歳の時に奥田先生が亡くなられます。

おばあちゃん的な存在でしたし気持ちが通じていたのでショックでした。父(倉知八洲土)と叔母(倉知外子)、野々村明子先生が後を継いでスタジオをやっていました。叔母は奥田敏子とは反対に私が身内であるがゆえに厳しかったです。他の生徒との関わり方とは少し違うのを子供ながらに感じていました。その点、野々村先生は平等に扱ってくれるので嬉しかったです。

――中高生時代のお話を聞かせてください。

高校受験もありましたし、遠くに引っ越してしまい週2回のレッスンに週1回しか行けなくなったりしました。それでも高校生までは普通にダンスをやっていました。叔母に東京の舞踊科のある大学を勧められたりしましたが両親は別の事やらせたかった。私はアルビン・エイリーが好きだったこともあり、いずれ海外に行きたいという思いがありました。英語が話せるようになりたかったので地元の英語の学べる短大に行きました。

――短大に入ってからは?

月に1~2回東京の石井みどり先生、折田克子先生のスタジオでレッスンを受けるようになりました。克子先生の作品に惹かれたからです。短大を卒業した後は2年間幼稚園に就職しました。その間ダンスのレッスンはおろそかになっていました。本当にダンスがしたいのか悩みました。一度名古屋から離れ東京に行って克子先生のレッスンだけに集中して通おうかなと。それで「これは違うな」と思ったらダンスを止めようと思いました。

折田克子作品『陽だまりの詩』(1993年) 撮影:テス大阪

――石井みどり・折田克子舞踊研究所での活動は?

ダンス三昧でした。週5回レッスンを受けていました。みどり先生はリトミックを教えていました。克子先生にはバレエやグラハム系のテクニックに加え先生の編み出した動きを教わりました。克子先生の作品に出ると、しょっちゅう怒られ皆必死でしたがヘナヘナしているダンサーはいませんでした。地面に対し床を押すという訓練を重ねて身体ができている。仲間たちと作品を創る機会も多く、創作のベースを学びました。楽しみは稽古の後に仲間と飲むこと(笑)。郷里の盛岡で活躍している金田尚子さん、東京で活動している阿部友起子さんらが同年代で、少し上の先輩に藤田恭子さんがいらっしゃいました。京都大学を出て上京した木許恵介さんも年上でしたが入門してきた頃でした。

『WAKU WAKU』(1993年) 撮影:テス大阪

――4年間東京で活動された後、名古屋に戻ります。

両親や叔母とは2年間の約束でした。でも帰りたくない(笑)。3年目に文化庁芸術家国内研修員に選ばれたので両親たちも延長を認めました。4年目には喧嘩しました。4年経って叔母がヨーロッパに在外研修に行くことになり、3ヶ月間戻って指導しなければならなくなりました。月に2、3回は克子先生の稽古を受けるつもりで名古屋に帰って教えを始めました。叔母の帰国後も助手をしたり自分でも教えたりアルバイトしたりして暮らしました。

『赤の組曲』(1997年) 撮影:和光写真

――しばらくしてフランスに行かれます。その経緯は?

叔母に「愛知県新進芸術家海外留学等補助事業」への応募を勧められました。しかし変な話ですが27、28歳くらいだったので結婚したかったのですね(笑)。でも、あるお見合いをした時、なんとなくそういう時期じゃないと思い踏ん切りがつきました。ジャン=クロード・ガロッタのグルノーブル国立振付センターで2年間研修することになりました。 ガロッタのところに行きたいと思ったのは「三井フェスティバル東京'88」で『ママーム』を観てショックを受けたからです。ダンサーが日常着を着ていて男性にも女性にも太った人も小さい人もいる。当時の私は自分の身体に対してコンプレックスを持っており、踊りは好きだけど思うように動けないジレンマがありました。『ママーム』を観て自分にしかやれないダンスをやればいい。そう思いました。ちょうどその頃SPAC(静岡県舞台芸術センター)にガロッタは来ていました。芸術監督だった鈴木忠志氏を静岡の佐藤典子先生に紹介していただきガロッタにコンタクトをとりました。1998年秋に渡仏しました。

『Mamamme』撮影:Guy Delahaye

――グルノーブルに行ってみていかがでしたか?

研修といっても実質はカンパニーでの活動でした。最初はちょうど新作のリハーサルだったので見ているしかない。「動いてもいいのよ」とか言われるのですが「あなたは何をやりなさい」とは誰も言わない。どうしていいかわからない状況が2、3ヶ月続きました。 当時メンバーは全員フランス人でした。国民性なのか向こうから何か言ってくれることはない。勇気をふり絞って彼らの輪に入りました。そうすると普通に受け入れてくれた。センターのマネージャーに「舞台に出たいしクリエーションにも参加したい」と話すと『ママーム』の再演があるから振りを覚えるように言われました。 そのようにして舞台に出られるようになりました。メンバーがギリギリの人数だったので代役が回ってくる。年が明けての新作に出る予定は無かったのですがメンバーの1人が怪我してしまいました。「可英がやれ!」となって、必死で振付を覚え初日に間に合わせました。そういったことが何度もあったので認めていただいたのだと思います。研修が終わる時ガロッタに「残りたい」と言うと「いいよ」と。両親や叔母とは喧嘩になりました。2年で戻ると思っていたので。以後6年契約を更新しガロッタのところに都合8年間いました。

グルノーブルの以前住んでいたアパートの前で。

ガロッタの自宅にて

――グルノーブルはどんな街でしたか?

小さな街です。盆地なので夏は暑く冬は寒い。夏になると皆避暑に行き、冬はスキーなどの観光客でにぎわっていました。地元のお客さんが劇場に来ます。街でもガロッタのダンサーだと言ったら通じます。ガロッタの名が知れ渡っている。ダンサーも優遇されている。たとえばマッサージに行っても少し丁寧にやってくれたりサービスしてくれたりしました。

――カンパニーの様子やガロッタの作品の創り方について教えてください。

メンバーは最初皆フランス人でしたがSPACにいた韓国人の女性や同じ名古屋出身の杉山昌さんが入ってきました。新作と前年の作品をツアーで回すのが基本でした。ガロッタの作品には最初大体の構成がある。彼の指示を受けながら動きはダンサーたちが創る。元々ダンサーではないのですが自分も踊ってしまう。美術家なのでグローバルな感じで観ている。コマみたいに動かして全体を創っていく。今作品を創るうえで勉強になっています。

『99duos』撮影:Guy Delahaye

――印象に残っている作品は?

『99duos』です。男4人、女4人が出演していてデュオが4つある。私は昌ちゃんと踊りました。日本語で意味もないバカみたいなことばかり喋りました。昌ちゃんがお母さんの名前を言ったり、手振りしながら「三味線ないな~」と言ったりギャグっぽいことも言いました。ガロッタからも「こういうことを日本語で言ってみて!」とリクエストされました。愛知芸術文化センターで行われた「第2回あいちダンス・フェスティバル」(2004年)で私たちのパートを上演する機会をいただきました。その時はフランス語で喋りました(笑)。

台北公演(2004年)

カンボジアでのワークショップ(2005年)

――2006年に帰国しました。

ツアーで20か国以上を回り年間公演数は50~100回くらい。日本と違い同じ作品を何度も踊れる。でも、ある時、本番中に機械的になって気持ちが切れてしまった。それに怪我も多い。踊れなくなって帰るのは嫌ですし……。両親や叔母には帰ってこいと言われていましたが、自分が納得できるまではやりたかたった。 ジャイロトニックを学んだのもその頃でした。日本人で初めてローザンヌ国際バレエコンクールに入賞しシュトゥットガルト・バレエで活躍された吉田尚美さんが先生です。旦那さんがグルノーブルのコンセルヴァトワールに勤めることになり引っ越してこられました。トレーナー資格を取って名古屋で教えられることになったのも帰国の後押しとなりました。

フランス・ランスで迎えたカンパニーでの最後の舞台(2006年)

――帰国後に変化したことは?

出会う人たちが変わりました。名古屋ではダンス関係以外のアーティストを全然知らなかったのですが、同僚だったヤニック・ヒューゴンと踊った『if time pass』を映像化しようとしてインターネットを通して映像作家を見つけました。彼に他の映像作家を紹介してもらったりしました。「日韓ダンスコンタクト」(2007年)に出た時もそうでした。異ジャンルの人たちと知りあうようになって刺激的でした。女性の写真家の親友とも分かりあえる。そこからのつながりで交流に幅が広がりました。それまで公演は年に1回くらいしかなかったのに小さなパフォーマンスを含めると月に1回くらいある感じになってきました。私は踊りたいし作品を創りたい。ずっと教えばかりだったら舞踊家じゃない。今でもフランス時代を良かったと思うこともありますが環境が違うので比べられません。

『if time pass』(2009年) 撮影:Kamu

――異ジャンルとのコラボレーションについてもう少しお話しください。

ヤニックと組むKAYAKU PROJECTでは名古屋の若いアーティストたちにやりたいことをやってもらおうという意図もありました。一回目は名古屋を拠点に活動している若いミュージシャン、映像作家や写真家。二回目は名古屋市立大学芸術工学部の学生らと一緒に作品を創りました。「あいちトリエンナーレ」祝祭ウィーク事業(2010年と2013年)で上演した『光の記憶』シリーズは、ヴォイスの児玉たまみさんと2人で創りました。児玉さんが台本を書き、私が振付を担当し仲間に参加して貰いました。児玉さんや日本舞踊家やミュージシャンがいると、その人に付いているお客さんがやってくる。そうすると違う世界も観られる。私のお客さんではない人でダンスも観たいと思っていただいた方もいます。こういったコラボレーションは今後も続けていきたい。

『OKUNI』(2011年) 撮影:タイムメモリー.

『光の記憶 第二章』(2013年) 撮影:kana sonoda

――2012年に行われた「花より華らしく・・・芸術に生きた女・女・女」という企画で地元出身の女優・川上貞奴をテーマにした作品を発表されています。

実在の人物を演じたことがなかったので貞奴について勉強しました。彼女に関する本を書いた方に取材したり日舞を習いました。和の要素もありましたが、音楽にサティの「グノシェンヌ」を使ったりしました。フランスと関係付けたかった。貞奴もパリで活躍しましたし、ある意味自分とも通じます。評判も良かったのでまた再演したいです。

『Ma Sada Yacco』(2012年) 撮影:中川幸作

――近年腰を据えて取り組まれているのがソロです。

ソロに関して「振り」という感じは無くなってきました。10分くらいの作品だと、(自分の中から)どういうふうに動きが出て来るのかやってみるところから始めます。『深いトコロ』ではずっと回り続けますが、回るというよりも体の軸について考えました。人間だけでなくコマでもそうですが真ん中に一本しっかりした軸がないと回転できないじゃないですか?その軸の方が頭にありました。軸があるから回るということが見えてくる。それを意識しないで踊って止まることはできないと思う。その前に踊った『innermost』が発端の「インナーモーストシリーズ」というのがあります。自分の深い部分から出てくる動きだけで創る。

『深いトコロ』(2012年) 撮影:東海フォト

――平成24年度名古屋市芸術奨励賞受賞記念公演として行われる「DANCE YARD4」で上演される作品についてお話し下さい。

先ほどお話しした「インナーモーストシリーズ」の1つ『踊りたいけど踊れない』というソロを踊ります。ヤニックとは『if time pass 2014』というタイトルで今の2人の色が出る作品を踊ります。『九人九色』という作品には教えている子たちに出てもらいます。基本的にかっちり振付をしていますがソロのパートは自分で創らせる。その人の「自分」を出したいなと。『Forget-me-not〜勿忘草~』は私のダンスと高橋誠さんのヴァイオリンのデュオです。今回トライしていることの1つにヴァイオリンとアコーディオンのライブが入ることがあります。ダンスを並べるだけでなく音楽もあると雰囲気が変わるじゃないですか?高橋さんはMCも上手なので作品についてお話もしてもらおうかなと。「ダンスは難しい」「分からない」という反応も多いので想像力を高めていただく糸口になれば。

『海の百合』(2012年) 撮影:kana sonoda

――今後の展望をお話しください。

引き続き色々なジャンルのアーティストとの方たちの出会いを広げコラボレーションしたい。劇場を借りての公演もやっていかなければいけないと思いますが、動員も自分がしなければならないので負担になってしまう。作品作りに集中したい。幸いスタジオには照明機材があってパフォーマンスもできます。スタジオを拠点にダンサーだけでなくミュージシャンとか照明家とかのスタッフもメンバーにして何かを創ることを考えています。チケット代も抑えたい。お客様にも気軽に足を運んでもらえるようになればと思います。

倉知可英 DANCE YARD 4

  • 【日時】
  •      2014年10月24日(金)18時30分開場 19時開演
  •            25日(土)12時45分開場 13時15分開演
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  • 【会場】 名古屋市千種文化小劇場
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  • 【出演】
  •      ヤニック・ヒューゴン  高橋 誠(ヴァイオリン)
  •      倉知可英        松本俊行(アコーディオン)
  •      石原稔子 石川かおり 今井祐子  小櫻ゆい
  •      下村芝布 水野杏南  廣瀬安加里 渡邊佑香
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  • 【演目】
  •      ダンスとヴァイオリンのデュオ   「Forget-me-not~勿忘草~」
  •      それぞれの個性を生かした群舞作品   「9人9色・・・殻の中から」
  •      内面から溢れ出る動きのみのソロ作品  「踊りたいけど踊れない」
  •      初演から11年の年月を経て進化を遂げる 「if time pass 2014」
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  • 【スタッフ】
  •      照明:御原祥子  音響:上野 慶  舞台監督:大蔵聡子
  •      宣伝美術:小山智大  写真:kana sonoda
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  • 【料金】 ¥4000(前売・当日共)
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  • 【お問合せ・チケットお取り扱い】
  •      愛知芸術文化センタープレイガイド
  •      Tel:052-972-0430
  •      オクダモダンダンスクラスター
  •      Tel:052-841-5072
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