伊藤直子インタビュー
~分からないダンスからファンがつくダンスへ マドモアゼル・シネマの軌跡と現在そして未来~

東京・神楽坂の路地裏にたたずむセッションハウスは、長年にわたり自主企画によるダンス公演やバレエ、コンテンポラリーダンスのクラスを行っている。その劇場付舞踊団として国内外で活躍するのがマドモアゼル・シネマ。芸術監督で㈱セッションハウス代表取締役の伊藤直子さんに、これまでの歴史や今後の展望を伺いました。

取材・文:高橋森彦(舞踊評論家)

伊藤直子・プロフィール
セッションハウス・レジデンスカンパニー「マドモアゼル・シネマ」主宰。1993年の設立以来、一人ひとりの記憶を創作の基とし、“未来を志向するノスタルジア”をキーワードに振付・演出を行なう。セッションハウスでの定期公演の他、国内巡回公演や海外のフェスティバルなど参加多数。重心の低い躍動的な動きと、少女期の記憶を紡ぐダンスは、日本人の身体伝統を受け継ぐ現代のダンスとして各地で受け入れられている。
2008年文化庁芸術祭新人賞受賞。2011年ポーランド・グリフィノ国際演劇祭にて観客賞受賞。またセッションハウスダンス部門プロデューサーとして年間40数企画のダンスプログラムを立案実施。韓国の二つのフェスティバルの審査員や、東京工業大学非常勤講師としても活動を展開、ダンスの普及や活性化に努める。

――マドモアゼル・シネマは拠点のセッションハウスありきです。セッションハウス設立の動機を話していただけますか?

1991年にセッションハウスを設立したのは自分たちの踊る場所を創りたかったからです。以前私は現代舞踊協会に所属し舞踊団に入っていましたが、辞めると踊る場所は全くといっていいほどありませんでした。小屋を借りて自主公演を打つと、アメリカ人のニーナという人が観にきてくれました。今後共同作業をしようと申し出てくれたのですが日本の公演のあり方はクレージーだと言われました。「ライブハウスでやればいいし、劇場で公演をするには企画書を書いて交渉に行くんだよ」と。そこで日仏学院に企画書を持参したところ、場所を提供され、スタッフも知り合いを集めて公演しました。それまではチケットノルマだけでは足りず赤字を抱えて公演していました。セッションハウスを立ち上げた時には、まず自前のスタッフを育てました。公募企画は募集時にノルマも明示しています。お金が入らないと維持できません。維持できない所で良いことをやっても倒れちゃったら何にもならない。若い人にとってもノルマだけ売れば自分に負担がないシステムは画期的だったと思います。

「赤い花・白い花」 2014年 撮影:伊藤孝

――そこからマドモアゼル・シネマ結成に至る経緯とは?

カンパニーを創る気はなかったんです。しかし、セッションハウスを始めると、踊りたいという情熱のある人たちが集まったので発表会から始めました。初期のメンバーには、韓国との橋渡しをしたり、日本をはじめ海外でダンスを続けていたり、セッションハウスのスタッフとして関わっていたりする人もいます。彼女たちのパフォーマンスを、後に中心的存在となる野和田恵里花さん(2007年没)が観にきてくれました。鹿児島からシロツメ草を取り寄せて、それを撒きながら踊っている作品を観て「入りたい!」と言ってくれました。

――1993年に正式にカンパニー名を付けて旗揚げ公演を行います。

『ノスタルジア』という作品を創りました。その頃から「記憶」とか「少女性」というテーマが出てきました。カンパニー名は海外でも興味を持たれます。マドモアゼルということで女性、女性性を問題にしていく。シネマというのは、ダンスだけではない人とのつながりで考えました。映画館で映画を観ている時、私と映画との関係だけで成りたっています。そういうダンスがしたいねと。観る人が安心してどっぷりと浸れる、その人の感情で観てくれるようなダンスを創りたい。作品を踊るということよりも、作品を間にお客さんとコミュニケーションを取る。人のために踊る、人が喜ぶことがしたい人たちが生まれてきた時代でした。近藤良平さんとかもそうですが、そういう人たちが自然に出てきたんです。

「赤い花・白い花」 2014年 撮影:伊藤孝

――初期の様子を教えてください。

最初はクラスに来ていた10何人かで一つの作品を創りました。しかし、お金をいただいて上演するのであれば質の高さが必要ということになり、出演者をセレクトしていくようになりました。私も踊るのは好きでしたが旗揚げ公演以後振付に専念しています。1997年に初めて芸術文化振興基金より助成をいただきました。そこからが2期の始まり。恵里花さん、勝部ちこさん、古園井美果さんとテクニック力の高い人が集まりました。初めての海外公演のアフタートークで「テクニックで踊る人と、そうでない人の2つのタイプを使うのはなぜか?」との質問を受けました。恵里花さんの存在が大きく、彼女は独特の動きのダンサーに価値を見出した。ダンステクニックではない所から出てくる動きに何かあるんじゃないかと。恵里花さんはスッと踊れてしまう自分を、一度そこに置いてみたいと実験していました。実験は途中でした。亡くなる前年(2006年)の『不思議な場所』で素晴らしい動きを見せて本人は「死ぬかと思った」と。涙が出るほど奇麗だったのですが、その時、肺をやられていて…本当に死ぬほど苦しかったんだと思います。その時につかんだ呼吸か何かがあったようで、だから最後まで踊りたいと。

「じめんにかじりつく」 1998年 野和田恵里花 撮影:伊藤孝

――中期くらいまで踊れる人、ぎこちない人がヒエラルキーなく共存していたのですね?

共存して出てくるのが切なさだったんですね。初期は観ていて本当に切なかった。恵里花さんたちが入って、美しい動きが出てきて、女の人の流れるような柔らかさとかが見えてくるようになりました。第3期になると可愛いらしさが出てくる。「KAWAII」が日本の価値として受け止められた頃です。4期となる今の若い世代が可愛いかどうか分からないですけれど可愛さを求めていない。「可愛いいなんて言われたくない!」とハッキリ言います。

――創作の方法をお聞かせください。

ダンサーに子供の頃のことなどを色々な言葉で聞きます。苦労したことであったり、お母さんにしてもらった仕草であったり、自分が発した言葉であったり…。子供の頃に帰ってノートに夏休みの日記をつけているつもりで言葉を出してもらったりします。でも簡単には理解されず皆思い出話をしようとする。個人的な思い出話には興味がありません。その時の感情が分からないと。シーンを創れないで辛い場合は、精神療法ではないから出す必要はないし、出して楽になる必要もないと言います。しまいこんでいる身体が発言体になる。でも、その時あった感情は見せてと言います。言葉や歌や、何秒かの振りや動きとして出す人もいます。一人ひとりが生きてここに在ること、必ず何か持っているということに気がつきました。人間という存在の愛おしさ、他人が触れてはいけない愛おしさを知ったことが、やり続けてきた宝だなと思います。

「つぐちゃんの空」 2012年 撮影:伊藤孝

――2期、3期は海外公演を活発に行いました。現地の反応はいかがですか?

最初は1999年にパリに『じめんにかじりつく』(仏パリ・日本大使館文化部ホール)、『いまぼくはここにいる』(仏パリ・モンド劇場"フェスティバル舞'99"参加)の2作品を持っていきました。谷川俊太郎さんの詩集を基にした作品です。海外に行く時は、いつもと環境が違うので、ダンサーのいきいき感が違います。大使館関係の公演は二国間交流の場として舞台袖に日の丸が出ていたりする。私たちも頭の中に日の丸がひるがえっているようで高揚感・責任感があります。「私たちすべてを良いと言って!」みたいな(笑)。やはり私たちのダンスを認めてもらいたいんですね。当時フランスからジャン=クロード・ガロッタらが来日公演をしていましたが、同じようなものだと認めてくださいみたいな。挑戦でしたね。 海外では気に入らない作品では観客は帰ると聞いていました。最初のパリ公演の時、モンド劇場で一組が上演中に立ったんです。するとダンサーは「何で帰るの!」と声は出しませんが、そのお客さんの方を見ていました。一組なら良いほうだと言われました。お客さんを帰さない!帰らないで!という思いがあります。今まで、その一組と、ルーマニアのシビウ演劇祭で一組の二組しか帰していない。ダンサー達にも「祈って踊ってね」と言います。あなたのいる今を私達は一生懸命踊りますと。何度行っても祈る気持ちです。ドイツでは客席からの足踏みをブラボーの意味だとは知らず驚きました。ブラボーとスタンディングオベーションは海外公演の喜びです。

「赤い花・白い花~ブルガリア前夜」 2004年 野和田恵里花参加 撮影:伊藤孝

――お客さんの違いや反応は大きいですよね?

大きいですね。地方では導入に「こんにちは!」って挨拶をすると大きな反応があったりします。セッションハウスだと客席と近いので導入に苦労しないのですが、海外や地方の場合、出の場面に対する集中は強いですね。非日常へと引き込むには、あの手この手を使わないと。そのためには、お笑いでも使う(笑)。コンテンポラリーダンスには様式がなく日常的な非日常だから入り難いのでしょうね。最初に観る側が入ってこられる要素を入れるようにしています。『赤い花・白い花』(2014年版)では、逆毛で頭を大きく膨らました山姥のようなダンサーが出てきて「今年も生きて桜を見ました」と一言、言います。同じ作品でもフランスだと「ボンジュール」と挨拶して、毛皮のコートで日本列島を作り、それを説明しながらダンスに入る。入っていくまでの時間をゆるやかにとる。それでも「分からない」と言われるくらいです。でも分からないダンスの、どこかが分かると思うんですよね。勘違いでもいいから、あなたと私の分かるが重なってほしいというのが私の願いです。

――2007年に野和田さんが亡くなります…。

私の後継者だと思っていたので、まだショックから乗り越えられません…。恵理花さんの命はもうないのですが映像は残っています。存在を知らないダンサーにもワークショップを受けに来た人にも恵理花さんがこのように踊っていたと見せます。恵理花さんは社会性とオープンさ、ダンスの素晴らしさという三拍子揃った人でしたが、今の人は名前も知らなくなってきました。凄さまでは伝わらなくても見せ続けていこうかなと。人はいなくなっても精神は残る。その象徴として恵里花さんを伝え続けると、ひょこっとその精神が舞台に出てくるんですね。恵里花さんが乗り移ったみたいに。私は人が死んだらどうなって…とあまり考えませんでしたが、恵里花さんを通じて初めて死後の世界があるのではということを実感します。

「不思議な場所」 2007年 文化庁芸術祭新人賞受賞作品 撮影:伊藤孝

――野和田さんを喪って以後の3期を振り返っていただけますか?

恵里花さんはあれだけの優れたダンサーだったのに賞に縁がなく、マドモアゼル・シネマで何か賞がほしいと言っていました。そこで亡くなった翌年、恵里花さんのために賞を獲ろうと文化庁芸術祭に出品しました。恵里花さんがいなくなり個としてのダンスが弱くなった分、衣裳など視覚的にも力を入れ、皆で固まって踊る動きで押していきました。その結果、文化庁芸術祭新人賞をいただくことができ、それから2011年までは恵里花さんの遺志を継いだメンバーが力をつけて踊っていきました。海外ツアーも増え一番の黄金期だったかもしれません。東日本大震災が皆の心に影を落としましたが、その年の秋、ポルトガル、ポーランドに行った時までは、2007年から引き継いできたものが花咲いて、作品の完成度も高くなり、どこに行っても喝采を浴びて頂点に達しました。しかし、その後、燃え尽き症候群になったり震災後の不安感を覚えたりして東京を離れたいという人が何人も出ました。海外に行った人、学問をちゃんとやりたいからと大学の先生になった人もいます。この時も大きな危機でした。心の揺れは仕方ないし信じた道を生きていくしかない。入る時にはセレクトしますが去る時には引き留めません。「がんばってね!でも関係がなくならないようにしようね」と。

――4期に入り、6人の新人が入られたそうですね。

今はゆらゆらとした過渡期にあります。2014年の『赤い花・白い花』の再演で新しいメンバーの力も揃ってきたのですが、結婚や怪我で辞めざるを得なくなった人も出てきました。マドモアゼル・シネマは、テクニック的に優秀なダンサーを求めているのではなくて、心と心が触れ合って何かができるということをしている。そこでオーディションをしてみようと考えました。自作の踊りを踊ってもらって「いいじゃない!」と思う子なら全部受け入れようと思い19歳から23歳くらいの6人が入りました。凄く新鮮な人たちが集まりました。

――2015年5月16‐17日セッションハウスで旅するダンス2015『刻(とき)のノート』が上演されます。新人も入った10人でのリハーサルの進み具合は?

新人は最初クリエーションに慣れていないからエピソードを語ったり、一発芸に走ったりします。再演という形ですが内容は全くの新作になっています。皆振りを貰えると思っていたらしく悩んでいます。私はのんきに構え1ヶ月間振りを与えないで悩むだけ悩ませようと思った。ズーッと題を出し続けて、どんどん答えを出させやらせ続ける。皆この人は何を考えているんだろう?本当に舞台になるのか?と心配したと思う。クリエーションで皆のやったことは全部ノートに書きつけてあります。この前、「誰のいつのこれを、誰のこれとこれとつないで」とまとめでやらせると皆が安心しました。こんな風になるんだ、自分が全然駄目だったのではないなと。

「わたしの東京物語」 2014年 撮影:伊藤孝

――『刻のノート』は形を変えて上演されてきたのですね。

初演(2005年)は『私からわたしまでの風景』と題し、椎名誠さん、渡辺一枝さんの写真集をテキストにしてワークショップメンバーを含めた19名で創りました。2008年には音楽グループ「つむぎね」と『私の音とわたしの風景』として再構築共演しました。2009年にも「つむぎね」と渡辺一枝さん、ダンサーの松本大樹さんとともに『100歳からの日記』として上演しました。生の音楽ってやっぱり楽しいんですね。でも今回その楽しさを全部消してやってみようと思った。椎名さんの本には椎名さんが切り取ったいっぱいの人の人生があります。初演に出た人たちは本から写真を選んで、その写真の人の人生になって創ったんですよ。今回は椎名さん、一枝さんの本と同じように、たくさんの人生の入っているノートみたいなものを創るように変えました。

――マドモアゼル・シネマの今後の展望をお聞かせください。

作品をレパートリー化したいしツアーもしたい。皆が一人ひとりでワークショップをできる力を持てるようにもしたい。世代交代も考えていかなければなりません。数年して新人が育つと先には東京オリンピックが来ます。その期間中セッションハウスの若手プログラムやマドモアゼル・シネマの作品を毎晩公演できるくらいにしておきたい。国内でコンテンポラリーダンスの観客を増やしたいですね。そのために何をするかを真剣に考えなければいけない。夢かもしれませんが月に1回公演ができる集客力を持ちたいですね。コンテンポラリーダンス=分からないダンスからファンがつくダンスに持っていきたい。ライブハウス化とまではいきませんが、そういうことができる軸になれるように育っていきたいですね。

公演情報

  • マドモアゼル・シネマ 旅するダンス2015『刻のノート』
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  • 構成・振付: 伊藤直子
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  • 出演:    竹之下たまみ 佐藤郁 外園彩織 鈴木加奈子
  •        豊永洵子 蓮子奈津美 堀田果那 古茂田梨乃 須川萌 中島詩織
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  • 日時・場所: 2015/5/16(土)19:00
  •        2015/5/17(日)13:00/17:00
  •        セッションハウスB1
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  • チケット料金:前売一般 3000円
  •        前売学生 2500円
  •        前売子供 2300円
  •        前売ペア券 5500円
  •        当日 上記料金に+500円
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  • お問合せ:  03-3266-0461
  •        yoyaku@session-house.net
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  • 照明:    石関美穂
  • 音響:    上田道崇
  • 舞台監督:  鍋島峻介
  • 衣裳:    原田松野
  • 美術:    くに若尾
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  • マドモアゼル・シネマ
  • http://www.mademoisellecinema.net/
  •  
  • セッションハウス
  • http://www.session-house.net/