バランシンジャーナル 第5回

【カザン大聖堂、外観】
バランシンの父方の先祖には、高位の聖職者が少なくない。出世頭は、グルジア正教会の大主教に昇進した父方の親類で、彼がサンクトペテルブルクのカザン大聖堂で執り行われた儀式に招集された際、 子供時代のバランシンも参列した。厳かな儀式はバランシンに深い感銘を与え、彼はその思い出を生涯、忘れなかったという。


 1904年1月22日、ジョージ・バランシンは、グルジア出身の音楽家メリトン・バランチワーゼ(1862〜1937) とサンクトペテルブルクで生まれ育ったマリア・ニコラエヴナ・ワシリエワ(1873〜1959)の婚外子として、この世に生を受けた。メリトンがバランシンおよび彼の姉タマーラと弟アンドレを実子として認知したのは、アンドレが誕生した1905年または翌1906年のことだった。

 バランシンの本名はゲオルギー・メリトノヴィッチ・バランチワーゼ、ロシア語表記はГеоргий Мелитонович Баланчивадзе、グルジア語ではგიორგი მელიტონის ძე ბალანჩივაძე。〈メリトノヴィッチ〉は、父の名が〈メリトン〉であることを示すロシア式のミドルネーム〈父称〉である。フランス語の響きを持つ姓〈バランシン〉は、1924年に彼がバレエ・リュスに入団した際に主宰者セルゲイ・ディアギレフが作り出した芸名で、彼はバレエ・リュス解散後もこの名前を使い続けている。
 バランシンは両親についてほとんど知らず、もしくは語ろうとしなかった。少なからず“訳あり”の両親について、後世の好事家があれこれ詮索するのは、バランシンにとっては心外なことだろうか……。

 数多の評伝のなかで、もっとも基本的な文献として知られる下記の2冊は、バランシンの両親の家系について、つまびらかにしていない。バランシンやアンドレイの記憶をもとに、父親は人好きのする社交的な性格、母親はアマチュアながらピアノの名人だったこと、サンクトペテルブルク市内のアパルトマンには客人が絶えなかったこと、バランシンが帝室バレエ学校に入学した時点で、一家は近郊の別荘に転居していたことなどが、どこかノスタルジックな筆致で綴られている。

Bernard Taper, “George Balanchine; A Biography.” New York: Times Books, 1984. (1996年に、新たな章を加筆したペーパーバック版が発行されている。日本語版「バランシン伝」は新書館より1993年に刊行)

Richard Buckle in collabration with John Taras, “George Balanchine, Ballet Master.” New York: Random House, 1988.

 しかしながら、2013年に出版された、ニューヨーク在住の舞踊史研究家エリザベス・ケンドールの労作(Elizabeth Kendall, “Balanchine & The Lost Muse: Revolution & the Making of a Choreographer.” New York: Oxford Univeresity Press. 以下、「BLM」)が、新たな情報を発掘した。ロシア、グルジア、フィンランド等に残されていた私信、洗礼証明書、バレエ学校の寮の日誌を含む膨大な量の資料を綿密に判読し、今もグルジアに暮らすバランチワーゼ家の末裔に面会し、それまで知られることのなかった事実と、事実に基づく推測を開示したのだ。「BLM」を手がかりにして、バランチワーゼ家の家系をさかのぼってみたい。

 今日、メリトン・バランチワーゼの名前は、グルジアの首都トビリシの音楽大学やバランチワーゼ家と所縁の深いグルジア西部の古都クタイシの音楽学校やオペラ・ハウスに冠されている。彼の息子バランシンは、トビリシ・シアター・ミュージック・シネマ・コレオグラフィ博物館の展示室や同市の街路に名前が付されている程度。グルジアに住むことも訪れることもなくバランシンは祖国を去っていたので、当然といえば当然なのだが、ずいぶんと分が悪い。
 といっても彼の地のバレエ界がバランシンを軽視しているのではない。ニーナ・アナニアシヴィリが芸術監督を務めるグルジア国立バレエはすでに十作ほどのバランシン作品をレパートリーに持ち、2014年5月には、バランシン生誕110周年を記念して彼の代表作『セレナーデ』『コンチェルト・バロッコ』に幾つかのパ・ド・ドゥを加えたプログラムを上演している。上述の博物館のジョージ・バランシン・ホールでは、同時期にニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)御用達の写真家ポール・コルニックが撮影したバランシンの写真展〈The Eternal Present〉が開催された。アメリカ大使館の支援のもとで、「BLM」のグルジア語翻訳も進行中だ。
 バランシンが後半生を過ごしたニューヨークには、NYCBの常駐劇場付近に彼の名前を掲げた小道があるのみで、特別なモニュメントや施設の類は存在しない。彼の業績を俯瞰したければ、NYCB公演で彼の作品を見ればよい。具象的な作品よりも抽象的な作品を好んだ振付家バランシンだけに、ごくシンプルなやり方でその名前を記憶に留めるほうが似つかわしいのかもしれない。
 ともあれ、父メリトンはグルジアの音楽界に大きな足跡を残した人物で、 グルジアの人々にとって、 息子バランシン以上に近しい存在なのである。
 グルジアのグリンカとも喩えられるメリトンは、グルジアを題材にした初のオペラ『ずるいタマラ』や歌曲、宗教音楽などを作曲し、ロシア革命後にはグルジア共和国(1922年にソビエト連邦に加盟)の文化大臣に就任した。重要な文化遺産とは見なされていなかったグルジアの伝承音楽に光を当て、コンサートホールやオペラハウスで上演する芸術の域に導いた彼の功績は、ロシア人が仰ぎ見てきたパリでロシアの美術展やコンサート、オペラ公演を敢行し、バレエ団を創設して欧米を席巻した興行師セルゲイ・ディアギレフ、あるいは単身、アメリカに乗り込み、独自の清新なバレエを確立させたバランシンに通じる、大勢(たいせい)にくみすることのない気骨を感じさせる。

【スパース・ナ・クラヴィー大聖堂、または、血の上の救世主教会】
農奴解放令を発令したロシア皇帝、アレクサンドル2世の暗殺現場に建築された教会。なんとも血なまぐさい名前だが、内部は色とりどりのモザイクで埋め尽くされている。新人振付家だったバランシンが、一時期、仕事をしていたミハイロフスキー劇場に近接する。


 バランチワーゼ家の縁者には少なからず聖職者がいて、幼年期のバランシンも聖職者に憧憬の念を抱いていた。ニューヨーク・シティ・バレエ設立後には、ロシア正教徒にとってもっとも重要な祝日である春先の復活祭が近づくと、バランシンはめったなことでは欠勤しないバレエ団を休みがちになった。料理名人として鳴らす彼が教会の懺悔室ではなく、自宅のキッチンにこもり、盛大なイースターディナーの準備にいそしんでいることは、バレエ団員や友人達の間では周知の事実だった。バックルの評伝に掲載された写真で、バランシンと彼が手ずから調理した正餐を見ることができる。料理に精を出し過ぎたのか、彼がどこか疲れた様子をしているのが微笑ましい。
 メリトンの父、つまり、バランシンの祖父アミラン・バランチワーゼは、グルジア西部イメレティ州の中核都市クタイシにほど近い村落バノジャで、教会が所有する農地を耕作する農民の子供だった。「BLM」は彼らを農奴(英語表記はserf)ではなく、〈church peasants〉と記している。とはいえ、もともとロシアの農民は国有地もしくは、貴族または教会が所有する領地に隷属する農奴に大別されるので、ロシアがグルジアでの支配権を拡大していた19世紀当時、バランチワーゼの祖先は、グルジア正教会が所有する農奴ないし解放農奴だったのだろう。
 古代ローマに起源を持つ農奴制は、ロシアでは、中世以来、徐々に強化されていった。ある程度の私有財産を持つことが認められ、所有者が承諾した場合は結婚できるなど、農奴は僅かながら人格権を有していた。けれども、近代化の妨げになったと指摘される通り、あるいは多くの文学作品に綴られている通り、所有者に搾取され、十分な教育を受ける機会を奪われ、生産性を高める術もなく疲弊し、家畜あるいは農耕具のように売買される悲惨な存在だった。なかでも辛酸をなめたのは貴族が所有する農奴で、所有者の気まぐれで陵辱されたり、シベリア流刑に処されたりしたという。クタイシ周辺の農奴の実態およびバノジャの教会が所有する農奴の実態はわたしのリサーチでは明らかにできなかったが、農奴の身分だったバランチワーゼの先祖が満ち足りた日々をおくっていたとは想像し難い。
 農奴達に一縷の望みを与えたのが、ロシア皇帝アレクサンドル2世(在位1855~1881)が宣言した農奴解放令だ。発令されたのは1861年、メリトンが誕生する前年のことである。バランチワーゼの先祖が居住していたイメレティでも、ロシアから遅れること4年、1865年に農奴解放に至った。
 法令上は、農奴は永年の隷属的身分から解放されるはずだった。しかしながら、少なくともロシアでは、多くの解放農奴は法外な価格で農地を購入して巨額の負債を負い、土地所有者への隷属の度合いを強めるか、離農して裸一貫になり、都会に流れて職を求めるかの二者択一を迫られた。結局のところ、農奴解放令は、おおかたの農奴にバラ色の人生をもたらすどころか彼らをさらに困窮させ、その解消は、1917年のロシア革命を待たなくてはならなかった。
 一方、バランチワーゼ家の先祖は時代の潮目を巧みに見極め、聖職に就くことによって、ロシア帝国の辺境の地で社会的地位を飛躍的に向上させ、末裔のバランシンが20世紀を代表する振付家として羽ばたく端緒を開いたのではないか。農奴解放令によって、農奴は職業の選択と移住の自由を手に入れた。新たに得た自由を謳歌するかのごとく、アミランは近隣でいちばんの大都会クタイシに移り住んで神学校に学び、近郊の教区プティで司祭に次ぐ〈輔祭〉になり、当地で地方貴族の娘と結婚、その後、出身地バノジャに戻り、司祭に昇進する。メリトンの世代になると、トビリシのグルジア正教会の大主教の座に昇りつめる縁者まで現れた。農奴解放令発令前には、目指すことすら許されなかった立身出世である。
 ちなみに、コーカサス地方にはイスラム教徒が多数を占める国々が多いが、グルジアは隣国のアルメニア共々、西暦4世紀にはギリシア正教会の系派に属するキリスト教を国教としている。〈アミラン〉は、ギリシア神話のプロメテウスに相当する、キリスト教伝来前のグルジアで成立した神話の登場人物の名前であったため、司祭に任命されるにあたり、キリスト教の聖人アントニウス(251?〜356?)から派生した〈アントン〉に改名した。
 アミラン、改め、アントンは、子供達が大成することを切望する〈教育パパ〉でもあった。メリトンを含む息子三人と娘一人の学費を捻出するために、居酒屋を開業したほどだ。 なかでも長子メリトンには並々ならない期待を寄せており、メリトンは8歳の時に父の母校でもあるクタイシの神学校に入学し、12歳で卒業、2年ほど、クタイシの名門ギムナジウム(中等学校)で学んだ後、グルジアの首都トビリシの神学校への進学を果たす。同校は名目上はグルジア正教会の管轄だったが、多くのロシア人が配属され、ロシア語で授業を行なっていた。グルジアの学徒をロシア帝国に相応しい高位の聖職者に教化する、エリートコースの最前線にメリトンは送り込まれたのだった。

〈続く〉