バランシンジャーナル 第7回

 

 メリトン・バランチワーゼが合唱隊を始動させた時、彼はすでに一家の長だった。黒海にほど近いサチノに隣接する村落出身で地方貴族の末裔だったガヤーネ・エリスタヴィと結婚し、1882年に長女ニーノ、1886年に長子アポロンを授かった。しかし、一家四人の生活は長くは続かなかった。

 グルジアのコニャック製造の祖で、グルジアの伝統文化の復興や慈善活動に心血を注いだ篤志家デヴィッド・サラジシヴィリ(1848〜1911)の経済支援を受けてペテルブルク音楽院で学ぶために、1989年、メリトンは単身で故郷を離れた。民族音楽のスペシャリストとして、母国では相応の名声を得ていた彼は、正規の音楽教育を受けてオペラを作曲し、音楽家としてさらに飛躍する野心に燃えていたのだった。

 妻ガヤーネは民族音楽に傾倒する夫メリトンに理解を示してはいたが、サンクトペテルブルクに移住することには二の足を踏んだ。ロシアから見て辺境の地である小村生まれの彼女は、北の貴婦人と称される大都会での生活に不安をおぼえたようだ。

 メリトンとガヤーネが正式に離婚したことを証明する記録は見つかっていない。バーナード・テイパーの評伝がメリトンは妻と死別したと記しているのに対し、エリザベス・ケンドールは二人はおそらく離婚していない、と主張する。ケンドール著「BLM」(第5回参照)によると、 メリトンと妻は協議離婚ないし別居を選択し、ガヤーネは子供を連れて郷里に戻り、両親や父方の親類の援助で子供達を養育した模様だ。1930年代後半に、マリアとガヤーネが手紙のやりとりをした形跡がある、との補記がある。

 彼がマリアと再婚したことを示す公式記録も見つかっていない。ケンドールが参照した子供達の洗礼証明書によると、メリトンと彼の友人や親類に付き添われてはいたが、受洗時のマリアは〈未婚の母〉だった。 洗礼証明書とは、その人物が洗礼を受けた、すなわち適正な手順を経て入信した旨を記録する、キリスト教会が管轄する台帳をもとに発行されるもので、結婚時などに必要な重要書類である。子供達は、当時、両親が居を構えていたサンクトペテルブルクの北東部にあった、キリスト聖誕教会で洗礼を受けている。残念ながら、同教会は、後年、ソビエト連邦の最高指導者もしくは史上稀に見る残虐な独裁者ヨシフ・スターリンの命によって破壊され、現存していない。「BLM」には、バランシンの弟アンドレイが誕生した1905年以降、翌1906年までの間にメリトンが子供達を認知したとの記述があるが、どのように認知の事実を確認したのかは不詳である。

 サンクトペテルブルクのシアター博物館で、ケンドールは興味深い資料を見つけ出した。バランシンが帝室バレエ学校に入学した1913年に提出した書類に、彼の出生証明書のコピーが添付されていたのだ。そこには、バランシンは正式に結婚したメリトンとマリアの息子であると記載されているという。ただしケンドールは、洗礼証明書にバランシン誕生時のマリアが〈未婚の母〉と記されていることを鑑みて、出生証明書は精巧に偽造されたものではないか、と推測している。

 いずれにしろ、メリトンはマリアと子供達-----1900年に誕生した第一子ニーナは、幼くして他界----をないがしろにはすることはなく、サンクトペテルブルクおよび近郊の別荘でおおむねともに生活している。メリトンとマリアは、今日でいうところの事実婚で結ばれたカップルだったのである。


 マリア・ニコラエヴナ・バランチワーゼ、旧姓ワシリエワの出自には、さらに込み入った事情がある。前述した子供達の洗礼証明書では、マリアは商人の娘で、職業は元職人とされている。 彼女の父称〈ニコラエヴナ〉は、 前掲の評伝にも記載されている通り、マリアの父親ニコライ・アルメディンゲン、ないしフォン・アルメディンゲンに由来するものだ。

 アルメディンゲンはロシアで起業したドイツ人で、マリアが誕生した後に母国に戻った、と バランシンの弟アンドレイは述懐している。厳格な身分制度が敷かれていた当時のロシアにあって、商人は貴族や聖職者、町人、職人等と並ぶ身分の一つである。ただし世襲ではないため、たとえ実子であっても、ギルドに登録し、相応の商売を営まなくては、商人の身分を継ぐことは許されない。マリアは父親が始めたビジネスに携わらず、商人よりも格下で、従事者の多い職人として働いていたわけだ。

 ここで一つ、疑問が生じる。ロシアでも既婚女性は夫の姓を名乗る慣例がある。だとすると、何故、マリアの旧姓は父親のそれではなく、母親の姓〈ワシリエワ〉なのか。ケンドールの推測では、マリアの母親は未婚で出産したため、娘に自分の姓をつけざるを得なかったということだ。

 結婚以前のマリアの暮しぶりも判明していない。彼女がしたためた私信の文面には少なからず文法の間違いがあり、グルジア語を母国語としながら、神学校や音楽院でロシア人教師に学んだメリトンのほうが、むしろロシア語の文章は正確だったという。彼女はピアノが上手だったこと以外は格別な技能を持っていない、無名の都市労働者であったようだ。

 メリトンに出会った経緯も不詳だ。彼の家政婦だった、彼の下宿の女将の娘だったとの伝聞情報に加えて、マリアが高級娼婦だった可能性がある、とケンドールは主張する。その根拠は、ニューヨーク・シティ・バレエが保管する一葉の白黒写真で、マリアが庶民とは思えないほどに盛装していること。パトロンのお仕着せかもしれないとケンドールが推測するドレスは、白ないし淡色のレースまたは立体感のある織り地を使った、ローウェストのデザイン。コルセットをしておらず、19世紀末のファッションとしては、進歩的な装いである。アールヌーボー風の曲線的なデザインのソファを配した撮影スタジオはどことなく芝居がかっていて、女優のピンナップのようにも見える。リチャード・バックルやテイパーの評伝に掲載された、後年の写真の彼女が所帯染みて見えるほど、この写真のマリアは若々しく、その表情は凛としている。わざわざここに転載するのも気が引ける不躾な憶測だが、第三者に余計な懐疑心を抱かせるほどに、彼女は美しく、その服装はおよそ庶民的ではないのだ。

 幸か不幸か、バランシンは母親の容貌をあまり受け継いでない。彼の艶やかな濃褐色の髪と瞳、やや面長の顔立ちは、若き日のメリトンの面差しに近い。かろうじて母親似といえるのは、グルジア人男性にしばしば見受けられる、ナイフで切り出したように鋭い鼻や顎のラインに柔らか味があることだろうか。20代の中頃から後退し始めた額のラインも、父親譲りのようだ。ただし、父親とは違い、あまり社交的な性格ではなかった。姉タマーラと弟アンドレイに比べるとバランシンは物静かな子供で、客人の前で楽器の演奏や歌を披露することを苦にしていた様子がうかがえる。3人のなかで、もっともダンサーになりそうもない気質だったといえる。

 弱冠9歳のバランシンが親許を離れ、帝室バレエ学校に寄宿生として入学したのは、偶然の産物以外の何ものでもなかった。

〈続く〉