バランシンジャーナル 番外編(後半)

 ニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)団員の平均的な一日は、古今のバレエ団の例にもれず、毎朝、レッスンで汗を流すことから始まる。いささか珍しいのは、バレエマスターに加えて、しばしば、主任バレエマスター(芸術監督に相当)がレッスンを受け持つことだ。  生前のバランシンは、このカンパニー・クラス(団員向けのレッスン)を教えることを日課にしていた。彼に比肩する振付家------たとえばマリインスキー劇場の大先輩マリウス・プティパ、ほぼ同世代のフレデリック・アシュトンやアントニー・チューダー、ジェローム・ロビンズ-----がレッスンを日常的に教えていたという例は寡聞である。100人もの団員を擁するバレエ団のトップとして、また、年に数作のペースで新作を発表する精力的な振付家として多忙な日々を送っていたバランシンは、なぜ、自らレッスンを教えたのだろうか。

「Mr. バランシンはよほどの用事がない限り、毎日、レッスンを教えました。1948年にNYCBを創設した当初は、団員の技術水準があまり高くなかったため、彼らを上達させるために自らカンパニー・クラス(団員向けのレッスン)を教える必要にせまられたそうです。必ずしも熟達していないダンサーを教えることによって、独自の指導法を見出だし、新たなテクニックを確立していきました。でも、彼がレッスンを教えた理由はそれだけではありません。 新作で使うムーヴメントをダンサーに踊らせ、実際にどう見えるのかを確認する場でもありました。バランシンにとって、カンパニー・クラスは、実験の場だったのです」

「彼はバレエ・テクニックを新たな次元に引き上げました。より素早い動き。より細やかな足の動き。より力強くフロアから踏み上がる動き。より美しい腕の動き。よりエネルギッシュな動き。具体的にどう踊って欲しいのか、バランシンは明確な考えを持っていました。 そのイメージを具現させるために、オーソドックスなテクニックに独自の改訂を加えていきました。私は貪欲に彼のレッスンを受け、自分の踊りが変化していくのを実感しました」

「具体例を紹介しましょう。片脚を軸にしてピルエット(旋回)を回る時、両脚でプリエ(膝を曲げる)をしてから軸足に踏み上がるのが一般的です。バランシンのやり方では、後ろ側の膝は曲げません。前側の脚を伸ばす力だけで踏み上がるほうが難しいのですが、両膝を曲げると不格好だし、脚を屈めた体勢が目立ってしまいます。ジャンプの着地では、踵をフロアに打ち付けないのが鉄則です。しなやかに舞い上がり、音もなく舞い降りる猫のジャンプがお手本でした。フレーズとフレーズの間で動きを止めず、なだらかに、スピーディに動き続けることも特色です。言葉で言うのは簡単でも、実践するのは簡単ではありません。私の場合は、付属のスクール・オブ・アメリカン・バレエで主にロシア人教師から学んだ、オーソドックスな踊り方を改めなくてはなりませんでした。時には、両膝を深々と曲げたグラン・プリエからジャンプをするという、とんでもないコンビネーションさえ練習しました。私達は四苦八苦しましたが、極端なやり方に挑むことによって、 重要な事とそうではない事を見極め、テクニックを改善できます。バランシンならではの教え方です」

  クラーク・ティペット振付『ブルッフ ヴァイオリン協奏曲』
リハーサル風景(NBAバレエ団)

 数多のバレエを創作したバランシンだが、彼は、自作について多くを語らなかった。ゆえに振付のプロセスは、当事者であるダンサーだけが知り得る、いわば企業秘密。しかしながら、多くの作品の創作に立ち会ったリチャードソンの言葉からは、バランシンが出演者に対しても多くを語らず、粛々と手早く、なおかつ紳士的に振付を進めていった様子が浮かび上がる。

「新作の振付は、淡々と進められました。大方の作品は、具体的なプロットのないアブストラクト仕立てです。つまり、音楽が創作のスタート地点にある。バランシンは稽古場に姿を現し、ピアニストとひと言、ふた言、言葉を交わしてから、私達に指示を出します。たとえば、そこに立つ、少し移動する、パートナーの体を支える。自らステップを踊ってみせて、私達に声をかける。『踊り難くありませんか? 次に何をするのか、アイディアはありませんか?』 彼の頭のなかで作品は出来上がっているはずなのに、私達が能動的に創作に参加していると感じられるように、彼は心を配っていたのです」

「1972年のストラヴィンスキー・フェスティバル(NYCBでは、創設当初から、特定の振付家の音楽を用いて、バランシン他の振付家による新作を集中的に発表する催しを開催している)のために、『ストラヴィンスキー・ヴァイオリン・コンチェルト』を振り付けていた時のことです。私は初演キャストの一人でした。他の新作の準備も同時進行していたため、頻繁にリハーサルをすることはできません。時間がとれると、彼は静かに稽古場に現れ、少し振付をし、去っていく。私達は切れ切れに作られていくステップを忘れないように反復し、次のリハーサルを待ち構えていました。私達の積極的な取り組みを、バランシンは大いに喜んでくれました」

「私はリハーサルの補佐役を兼務していたので、ある日、バランシンの隣に座ってリハーサルの進行具合を確かめていました。彼は知人の噂話をしていたかと思うと、急に私に質問しました。次の場面の振付はどうしましょうか、と。フィナーレの少し前、退場した全出演者が、再入場する場面です。私はダンサーを円状に配置させたらどうか、もしくは、退場前のコンビネーションを繰り返してはどうか、と提案しました。バランシンが、デビッド・リチャードソンという男に振付のアイディアを訊ねている。我ながら、なんて不思議な光景だろうと思いました(笑)」

 『ストラヴィンスキー・ヴァイオリン・コンチェルト』は、バランシンが自身の最高傑作の一つとみなしていた、と伝えられる作品だ。取材者としては、創作時の稽古場で、バランシンが舞踊神テレプシコーラの啓示を受けるなり、振り付けあぐねて苦悶するなり、ドラマチックな出来事が起きたと想像したいところだが、 現実は、さにあらず。〈ベスト〉の状態からほど遠いスケジュールであっても、カンパニー・レッスンでの実験を経て、慌てず騒がず目の前の現実に柔軟に対処して〈ベスト〉の作品を生み出す、バランシンの敏腕の産物だった。
 バランシンの許でバランシン作品を踊った経験に話題を転じると、リチャードソンはその喜びを滔々と語った。バランシンが20世紀を代表する振付家であることは言わずもがな、バレエ団のトップとして、そして一人の人間として、団員達に心から敬愛されていた様子が伝わってくる。生前のバランシンに接する機会を持ち得なかった、遅れてきたバランシン・ファンとしては、リチャードソンがバランシンの許で過ごした20年間を羨望するばかりである。

「Mr. バランシンは寛大な紳士でした。英語にはロシア人特有のアクセントがありましたが、いつも穏やかな口調で私達に話しかけました。教師や芸術監督によっては、仕事中に不機嫌になったり、声を荒げたりします。でも、彼はいつも落ち着いた物腰でした。もちろんバランシンは偉大な芸術家です。私の上司でした。心から尊敬できる一人の人間でもありました。だからといって私を含めたダンサー達が彼をむやみに偶像視したり、彼の前でかしこまったりすることはありませんでした。Mr. バランシンはダンサーを信頼し、むしろ私達のほうが特別な存在であるかのように感じさせてくれた。稽古場には建設的な空気が漂い、私達はのびのびと仕事をし、成長していきました」

「バランシンが丹誠を尽くして作り上げたバレエを踊る。それはこの上ない名誉でした。舞台が始まる瞬間を想像してみてください。私達は舞台衣裳を身に着けています。バランシン御用達の衣裳デザイナー、マダム・カリンスカのアトリエに特注した、踊りやすくて美しい衣裳です。フィッティングにはMr. バランシンも立ち会ったものです。ほどなくして指揮者がオーケストラピットに入り、数十人のミュージシャンが演奏を始める。幕が上がり、美しい音楽が私達の五臓六腑にしみわたる。そしてパートナーの手を取って、二千数百人の観客が見つめる舞台に足を踏み入れる。バランシンが十分に目配りした照明が舞台にふり注ぐ。開演前の緊張感が一気にほぐれ、何とも言えない高揚感に包まれました。舞台というよりも、神聖な教会にいるような感覚です。バランシンの許でバランシン作品を踊ることは、何物にも替え難い素晴らしい経験でした」

「いま、私は様々なバレエ団に赴き、作品の指導をしています。私がNYCBで踊り、アメリカン・バレエ・シアターでバレエマスターを務めていた当時、バランシンに加えて、ジェローム・ロビンズやアントニー・チューダーといった巨匠達が健在でした。アメリカン・バレエの黄金時代を知る世代の指導者として、バレエという芸術の奥深さを伝えることが、私の使命だと思っています」

〈David Richardson プロフィール バランシン・ジャーナル番外編(後半)参照〉

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