増田万吉は、近江国(現在の滋賀県)高島郡で生まれた。
琵琶湖のほとりで育ったことが万吉の人生を決定づけたようである。
冒険心と進取の気性が人一倍強かったので、静寂な片田舎ではあきたらず、17歳で故郷をあとに諸国を旅していた。
そんな折、横浜開港のことを耳にする。
文明開化の地横浜に続々と血気盛んな人々が入浜しているという情報は、万吉の気持ちを燃え上がらせた。
1859年(安政6年)12月、万吉は英国商社の住み込みのボーイとなった。
持ち前の度胸と先進性はオランダ人ヒフトの目にとまり、商館番頭の地位に抜擢された。
そのころ、外国人居留地では外国人の屋敷が盛んに建築され、貿易が増大の一途をたどっていた。
商人たちは倉庫に多くの商品をいれていたので火災の発生をたいへん恐れていた。
1860年(万延元年)、外国商人は資金を集め、手押ポンプを購入し、万吉を消防隊の預り人に選んだ。
やがて周囲に認められ、居留地の消防頭となった。
1866年(慶応2年)、横浜港に停泊中の英国弾薬船が、船底の故障で浸水を起こした。
このとき港の消防頭を務めていた万吉は僚船パロシア号に積んでいたゴム製の潜水服を着て自ら海底に潜り修理をしたという。
この事実は消防という立場でのはじめての救助ということになるのではないかと思われる。
これを契機に万吉は海底へのつきせぬ興味をつのらせ、ヒフトに頼んでオランダへ渡り潜水術を習得する。
帰国後の1873年(明治6年)、潜水業に従事するため消防組を辞職。
わが国で初めての機器潜水業を始める。
難破船引き上げ、築港、航路整備などで盛況となり、大成功を収めた。
自分で考案した潜水器具を作らせ自らこれを着用して潜水した。
また多くの後継者を養成して、現在世界一といわれる日本サルベージ業の礎を築いた。
酒屋の増田家へ養子に入ったが、酒は口にせず、モダンでふだんでもモーニングを愛用していた。
もの静かな人であったが、日本全国を股に掛け、大きな事業を請け負い、途方もない大金を手にし、そのすべてを海底に眠る幻の船にかけたのだった。