横浜消防の黎明

1858年(安政5年)、徳川幕府は、アメリカ、イギリス、オランダ、フランス、ロシアの5箇国と自由貿易を許可する通商条約を結び、神奈川、長崎、箱館の3港を開港することとなった。

そして、それまで人口350人ほどの一寒村にすぎなかった横浜が、いちやく歴史の表舞台に登場することになる。

全国各地から一旗揚げようとする人々で横浜は活気にあふれ、開港の10年後には、人口約2万8000人、横浜に市制がしかれた1889年(明治22年)には、人口約12万人に達した。

幕府は開港場横浜村の中央(現在の神奈川県庁所在地)に運上所を置き、そこを中心に東を外国人居留地、西を日本人居住区とした。

横浜は外国人居留地を起点とした先進欧米文化の先端を走ることになり、文明開化の発祥の地として発展していくのであるが、消防もまた近代化への道を歩むことになる。

この激しい時の流れのなかに、近代消防の祖ともいうべき2人の人物、増田万吉、石橋六之助が活躍していた。