石橋六之助は千葉県上総国武射郡に生まれた。
江戸に出て商業に従事していたところ英国公使の書記に認められ、1860年(万延元年)4月、居留地で塵芥掃除業を始めた。
ある年、居留地に火災があり、外国人まで飛び出してきて大騒ぎとなった。
このとき六之助の指揮する一団が飛び込み、消火にあたったが、この働きを英国領事のオールコックが評価し、六之助に消防をやらせようと思い付いたといわれる。
さちには、外国火災保険協会も六之助に居留地の消防を依頼した。
1870年(明治3年)、神奈川県庁は、横浜町内に消防隊を組織し、各町内にポンプを備え、各部隊の総頭取に六之助を任命した。
1873年(明治6年)、増田万吉が辞職し、潜水業を経営したので、従来居留地30番に設置してあった消防所を薩摩町(現在の中消防署)に移した。
さらに蒸気ポンプ3台を購入し、山手居留地に1台、薩摩町本部に2台を備えた。
明治中期、六之助は、459人の消防夫を指揮していた。
「それ、ゴミ六ポンプが来た。火事は消えるぞ。」と町の人々の絶対的な信頼を集めていた。
その姿は、真っ裸に赤ふんどし、向こうはちまき、手にはトビロを持って、火に立ち向かっていく。
ゴミ六消防隊の活動はまさに勇猛果敢というものであった。
1881年(明治14年)、オーストリア人のニコラル・モルギンがくると、六之助は薩摩町消防頭取となった。
自ら外国人と交際し、新しい消防知識、機械を取り入れ、消防隊の整備、近代化につくした。
面倒見の良い六之助の周囲には、彼を親分と慕う者が集まってくる。
そして消防を愛したゴミ六親分は、まさに消防に殉じたのだった。
万吉も六之助も早くから居留地に出入りし持ち前の度胸と才能で頭角をあらわしている。
移り変りの激しい時代のなかを、精一杯に生きた2人は、手をたずさえて横浜の火災防御に当ったこともあったに違いない。